2015年10月1日木曜日

【草原の実験】人の感動は容易く、空を仰ぎ地平線を目指すだけで良い。それと14歳の美少女。

ネタバレしまくり。

Elena An

この映画は、主演のElena Anという当時14歳の超絶美少女Elena Anフェオドシヤの風景が全て。

本作はセックスはおろかキスすら無いのだが、清純のための確信か、14歳という年齢のためか。YoutubeElena Anを検索しても結果は皆無。

今後どうなるか知れぬとは言え、日本も世界も、美少女に過剰反応するくせに、この美少女を無視しすぎだろう。この映画自体は、たまたま知って見に行くつもりだったが、Elena Anが来日するのを知らず、がっくし。知ってたら初日に行ったわ。

シアター・イメージフォーラム

どこまでもだらだらといい加減な傾斜で続いている坂道を登り詰めたところが、目指すシアター・イメージフォーラムである。

64席。客入りは平日もあり30/64人前後。男女比7:3程度。

無声映画では無い

台詞皆無を売りにしているが、冒頭から呼吸音や自然音や音楽はあり、無音性は皆無で、登場人物の台詞はないが、ロシア語のラジオを聞いている場面があるので、非言語な作品でもない。そのロシア語や、冒頭のロシア語クレジットにも字幕がなく、9割共有出来ても、少なくともロシア人が見るのと同様とはいかない。上坂すみれを連れてこい。

パンフレットには韓国国籍とあるが、来日インタビュウを見る限りロシア語が母国語っぽいので、上坂すみれと対談させて、それを日本版BD特典にしよう。

本作を見ながら連想した人物と作品

作品について連続して語るのではなく、見ながら連想してた作品と対比して、色色と書く。

クリストファー・ノーラン

風景や背景を登場人物ばりに大事に撮影するという点で。ノーランはただのバストショットでも、広角でも背景がボケるくらい広い場所でちょい広角で撮影して通常のバストショットよりも立体感を出すようにしてるが、その考えは草原の実験も似ている。ノーランはステディカムやドリィを好きで、静かに動かしながらかっちり撮るが、草原の実験ではカメラを極力動かさず、静止カメラのわかりやすい構図はアニメ的とも言える。かと言ってアニメほど登場人物が極端に動くことも無い。本作の名作性は、明らかに撮影場所の背景に依存していて、人の感動は容易く、空を仰ぎ地平線を目指すだけで良い。ノーランよりも人、特に女を大事にしているのと、Elena Anが家から駆け出すのをフォロウしてるカメラが手持ちで揺れまくってたのが決定的に違う。

押井守

ノーランと押井守も似ていて、無機質に愛着を持たせよう、しかし感情移入は許さない、みたいな感じ。場面における場所を大事にするのも同じで、スカイ・クロラなんざ、あの素晴らしい最終場面、5億点の空と地平線を思うに、これをやりたかったのでは?と思う程だった。だからこそ自分はスカイ・クロラを評価しているのだが。押井守は、戦闘場面を排したディレクタズカットを作る約束をしたが結局はやらせてもらえなかった、と何かで言っていたが、だからこそ、より草原の実験を見たら、予算や描写などうらやむのではないか、と思った。

冒頭、押し葉から机へのティルトは、煙草から絵本への人狼 JIN-ROHの最後を思い出した。ゆえに冒頭のパンニングを見て、これ絶対にバッドエンドだなと思った。人狼 JIN-ROHも静かな恋愛と苛烈な状況展開という点で似ている。

宮崎駿

作品世界において実に平凡な生活に疑問も不満もない超絶美少女。また、美少女と同様に天然自然を評価して、徹底して嫌味なく美化してる感じ。冒頭で、Elena Anの父親が羊の頭と脚でU字に持って歩いてる場面の羊の顔が、諦観とも反目とも言えない表情で、とても恐ろしかった。宮崎駿はそれをアニメで再現するから恐ろしいのだが、草原の実験ではそのものを見せられた。その前の、父親に枕にされてる羊の穏やかなこと。

また、宮崎駿は構図に凝りながら、現実にしては派手だがアニメにしては地味な微妙な人の運動を描写するが、草原の実験はまさにそのもので、地元男が、馬でElena Anを迎えに行くも、降りずに彼女の右手をつかみ、彼女も腕に引かれながら右脚を90度近く開きながら飛び乗る、運動における必要な無様をしっかりと見せていて良かった。場面の構図自体はロングショットで、あくまで大自然の中の瑣末という感じであったが、いずれ構図には凝っても演出が強調せずに動作には嘘が無く素晴らしいものだった。

馬の左から乗り、降りる時は彼の右手を掴んで馬の右から降りていた。これは馬の左右に偏らない乗馬としての配慮なのか、動きやすさ優先した結果なのかわからない。

Elena Anが下馬の後に、乗馬のままの彼に水を差し出すが、残った水を石に振りまき水が灼ける場面で、1度目は水が残ってるが、2度目の時は彼女がロシアイケメンである異国人に気が行っているので、地元男のまいた水が残らず灼けて蒸発してカットが変わってる。

また、帰る際にちょっとした石段を飛んで帰るのだが、1度目と2度目ともに構図は同じも、2度目は同じ横長の石段ながら、左よりも気持ち高い右のほうを飛んで帰っている。いずれも彼女と地元男の関係、障害と認識して間違いない地味だがわかりやすい映像演出、とことん背景を利用しようという作品。

菅野よう子

音楽が、クラシックの白玉で、ちょっとキャッチな民族女歌。菅野よう子が実写でやったらこういうつまらない感じになるな、と言うか。本作の音楽自体は奇麗で有効で、ED曲なんか無伴奏の民族女歌。呼吸に近い静かなリズム声など、かなり明確で独特。こういうのを日本でやったらBlind Summer FishみたいのがED曲なのかなと。

キルギス(誘拐結婚)

パンフレットにはウクライナクリミア半島にあるフェオドシアと書いてあるが、Googleではフェオドシヤじゃないと色色と見られない。どちらが一般的なのだろうか?

キルギスとはおよそ2000km離れている

作品の元ネタは1949年8月29日のセミパラチンスク核実験。ここはキルギスから北に1000km程度フェオドシヤよりは近く、キルギスから北に1000km程度フェオドシヤカザフスタン最西から800km程度と、極論であるが連続してるとも言える。

インドネシア(アクト・オブ・キリング)

アクト・オブ・キリングで女の子とセックスしたのを嬉々として語り、それが14歳だったら最高だ、と盛り上がってる場面があったが、14歳至上主義は日本に限らず根が深い。パンフレットにあるが、草原の実験も最初に決まってた女優が、撮影前の段階で大人っぽくなってしまったので、ふさわしい女子を探して探して探しまくった結果Elena Anを見つけたとの事。両親がセレブなのか、彼女自身は強く出る事もなく、穏やかに確信を持った感じがする。海外情報で検索して、彼女の情報は皆無だし、今後は不明とは言え、過信も過小も無い健全さが伺える。

グリマー(Monster)

三角関係で男2人のうちの1人、ロシアイケメンの笑顔が、グリマーそのもので笑った。

ドッグヴィル

本作における田舎の幻想性で連想した作品。ドッグヴィルは田舎という環境と人間の欲望が搗ち合うとどうなるか、その対象が人間であればどうなるか、を極めて地味に明瞭に描いているが、草原の実験はそこまで辛辣ではない。少なくとも登場人物という点で、美醜ともに過大評価せず、美醜は観客のために用意された装飾であり、登場人物にとって美醜は呼吸や瞬きのように無意識の前提となっている。

ドッグヴィルの場合は、可能な限り背景を排して登場人物を際立たせる特殊な演出なので、草原の実験とは真逆とも言えるのだが、それでも両作品は似ていると思う。大衆娯楽というよりは文学的な作品なのに、ヒロインが過剰に美人であるという点とか。

ニコール・キッドマンのエロを語るに大概アイズ ワイド シャットが挙げられるが、個人的にはドッグヴィルこそ最エロで、作品の内容そのものも残ると思っている。両作品とも田舎のエロを扱いながら、草原の実験は生活の必然であり感情の過大評価はなく、ドッグヴィルはひたすら過剰に求め続けている点で大きく異なる。DVDを持っているが、ドッグヴィルBD発売しやがれください。アメリカすらDVDのみで、何か事情があるのだろうか。

リミット(Buried)

この映画はもっと評価されるべき。ゲオに行くと、ちょくちょくカップルなどが「くそつまらなかったw」と話しているのを耳にする。この映画は、限られた場所と状況を1箇所で撮影し、しかし設定では同じ場所なのに視覚的な変化のために複数の美術を用意して、出演者1人に対して複数のカメラレンズを駆使して飽きさせない抑揚を見事に出していて、危機感ある娯楽作品としての勢いと、物語の前提が皮肉や社会風刺を含み、リミット(Buried)は低予算を売りにしていたが、人数と場所を限定しただけで撮影や演出は大作と限らない、映画撮影の基本と全てが詰まってる作品だと思うのだが。そして、草原の実験は極端に少ない出演者と台詞皆無を売りにしているが、撮影機材は大作と同等で、人物と風景を惜しまず撮影して、撮影箇所こそ限られるが全く退屈な点は無い。草原の実験は出演者数と撮影場所が1箇所の割には絶対に予算行っていると思うのだが。

ミスティック・リバー

小さな水の流れを追ってZ軸に走るカメラが、全く明るく静かで、むしろ破綻を予感させるようなとこがミスティック・リバーっぽいなと。

ベルセルク ロスト・チルドレンの章

草原の実験で驚いたのが、父親との関係が極めて良好な事。男は80kg程度のごつさで、顔も悪いと言えば悪い。また、Elena Anは誰に対しても過剰に喜んでみせず、父親の足を彼女が桶で手洗う場面など主従的であるし、性的トラウマがあるものだと予想していたが、全くそんな事もなく、親子に限らず人間関係は平穏そのものであった。(ロシア)異国男が家に来ると窓から見られないように隠れたり、異国男による彼女を含む地元女の支配があるような設定で、セックス描写は無くとも、隠れる描写だけで容易にセックスを観客に認識させるものでベルセルク ロスト・チルドレンの章ジルそのものだと思ったが、そういった強国と弱国、男女の実情のようなものではなかった。そういう意味で、Elena Anは他国の幻想を求めずに自国の現実を疑問なく選んでいる。父親が死んで家を出るのに、地平線の中で無視して通れる簡単な有刺鉄線を見て、その隔たりから地元男を選ぶ。男女関係の結果はともかく、Elena Anは人間関係とは無関係な些細な物による娯楽はあっても、見知らぬ強い幻想を抱かずに生きている、立場と身体は弱いが価値観が揺るがない強い女。そういう意味で、生活環境は変わっても成熟していて成長しない少女。

アポカリプト

登場人物の幸福も不幸も無駄にする結果を招いたのは、実はずっと当事者として描かれてきた登場人物じゃなく、ずっと描かれなかったもので、誰よりも観客である私達(の国や人種)こそがもたらした事である、という当事者性を持つ国によって、また、どんでん返しと見るか、卓袱台返しと見るかで評価が大きくわかれるように思う。個人的に、映像の凝りようが、あまりにハリウッド的に出来すぎているのが逆に作品の説得力を損ねてしまったと思う。素朴ゆえの小さな要素の大きな評価を。

そして、その構造はアポカリプトまんまだな、と思っていたら、パンフレットで監督が影響を受けた作品にアポカリプトを挙げて自白していた。アポカリプトは大きな要素の大きな評価に勝る絶大な要素の絶大な評価、という意味で草原の実験と異なるが。

碁を打つ女

田舎に疑問なく、田舎の破綻ではなく、田舎の平穏を無視して展開されるもっと大きな状況と、それに抗えずに終わる男女。碁を打つ女の場合には、互いの関係がそこまで頻繁に密接でもなく、悲恋と言って良いかも曖昧なところがあり、破綻よりは破滅を選ざるをえない状況と選択がある。草原の実験は、少なくとも人間関係という点において、誰かが悲しんだところで全員が納得しているところで、選択と行動こそを明確に見せても、碁を打つ女ほど感情の描写は無い。特に、三角関係において男2人のほうが観客向けの表情をして、Elena Anは表情こそ多様ながら、その意味がわからない点もある。

Hyper Light Drifter

非言語的な名作ゲームとしてICOワンダと巨像が有名だが、さっさとHyper Light Drifter発売しろよ、と本作を見て思った。いずれも、人工と自然が等しく、ゆえに雰囲気が作品の土台となっている。

【草原の実験】は少女漫画である

基本的には男の監督が美少女を過大評価している男向け作品だが、構造は少女漫画でもある。地元人と異国人が自分(女)をかける三角関係。女は地元の現実か、異国の幻想を選択する。だから、これ程の美少女で、いかにも清純な描写と演出なのに、結構ビッチ臭もするw

結局は地元の生活と異国人の幻想を両立させた御都合主義だし。そこで終われば少女漫画だが、最後の最後まで少女漫画として見てると人類滅亡。そして、商売上の問題は、登場人物である2人の男が、三角関係に酔う日本の女が騒ぐタイプのイケメンじゃない事。自分をかけて戦う地元男と異国男に水をぶっかけて止めるなんて、完全に高橋留美子の乗り。

残念なところ

  • 水の音がわざとらしい
  • 雨が人工的に過ぎる
  • 風景に対して過剰な構図演出
  • 映画館の音響がしょぼい
  • パンフレットにElena Anの写真が無さ過ぎる
  • クレジットに字幕が無い
水の音がわざとらしい

基本的な効果音は全く問題無いが、水の流れだけ、流れのわりに誇張されてる違和感があった。

雨が人工的に過ぎる

これはしょうがなかったのだろうが、雨以外は天然自然をとことん見せているだけに、降るだけで動かない、単調でぶれない雨の違和感が半端なかった。

風景に対して過剰な構図演出

父親が横向きに遠近法で太陽を食べる絵や、最後に地元男が煙に向かって叫びながら走る様とか、登場人物が観客を意識してる感じがあって嫌だった。最後の爆発も、爆発そのものは前振りもあったし良いのだが、ここで急にハリウッド映画ばりのVFXと格好つけた構図や演出で、この作品がそこまでやってきたことに反する過剰演出だったのではないかと。ロングショットで真ん中に木があって、地面が実は父親の頭ってのには笑ったけれども。

最後の洗濯物。2人の服はCGだろうか?CGっぽく見えなかったのだが、左右に並ぶ2人の服が、風にあおられて男の服の袖が女の服に回り込む。ワイヤかな。キスはおろか触れ合う描写もなく、これだけでギシアン朝チュン。

最後の赤い2人綾取りなんて、あざとすぎてもう…。

映画館の音響がしょぼい

64人しか入らない映画館だからしょうがないが、外の車だ電車だの振動が響いて、常に20から40hzくらいが小さく鳴っていて、たしかに大作映画ではないが、そよぎなど小さな音を大事にしてる作品だからこそ、まともな音響で見たかった。また、座席の位置が低く、最後尾で見ても顔を上に向ける必要があって首がつらかった。この映画、IMAXの音響で見たかった。

パンフレットにElena Anの写真が無さ過ぎる

写真集だせや。

クレジットに字幕が無い

クレジットとラジオのロシア語。題名すら字幕がなく、日本は実質無関与。これ日本向けBD発売するのだろうか。

最後に

名作という程どえらい映画ではないのだが、全くぬかりなく、広大で美しい実際の場所でのみ撮影され、少ない登場人物を大事に、かつ、この場所での行動という、キャラ萌えじゃなく、場所と行動の一致にある、本来は感動の対象とならない生活の感動化。特に、日本の八百万神的な、神話や英雄や恋愛など不要で、見える触れる物を求めず捨てず、無感動で無意識の生活。これは、各国の都会に住む人間だから得られる感動であるし、悲劇もまた、無関係を巻き込む実現が可能な人間(国)だからこそ思い知る悲しみであるし、日本人で都会にいる自分では、その一部を見出すに終わるが、少なくとも、これらを見出せる歳にとって見る価値はあり、BDとElena Anの写真集を待つ。

おまけ

前後するが、11時17分頃に到着して、12平米程度しかない出入り口広場にいてもしょうがないので、天気も良かったので散歩しがてら撮影。12時10分の上映で、12時から入場可能だが、12時に戻ってきたら整理番号6なのに、既に30番まで呼ばれていた。今入らなくて何のための整理番号か!

根津青山を何者か知らないが、面白そうなので記録。

根津美術館。歳のせいか、古いものを過大評価するようになってきたように自覚しているが、うらめしや 冥途のみやげでも思うのは、残せたという困難を知るに、最新が勝る、最新に勝るをも思い知るには丁度良いとも考えている。

現在地を中心にぼろぼろで見られないのは問題あるのではないか。